前回の記事、
allyourwishesarefulfilled.hatenablog.com
に、以下のように書きました。
お気づきの方もいると思いますが、現実とはエゴありきです。
詳細にいえば、
物理現実とは大きな意識(=自分の正体・本質)の中にあるものの投影だが、エゴの判断次第で見え方が変わる
ということです。
大きな意識にはすべてがすでに「ある」ので、エゴがそれをそのまま受け入れていれば、エゴは「ある」現実を見ます。
大きな意識にはすべてがすでに「ある」けれども、エゴがそれを受け入れずに「ない」を受け入れれば、エゴは「ない」現実を見ます。
(エゴがどうであろうと)大きな意識にはすべてがすでに「ある」、これは揺るぎません。また、現実とは大きな意識の投影ですから、現実にもすでに「ある」のです。
しかし、それを見る・見ないはエゴ次第なので、「現実とはエゴありき」なのです。
ではなぜわざわざエゴが見ることを拒否するのかというと、私たちが生きている三次元+時間の「時間」がネックになっているからだと推測します。
すべて「ある」中からエゴが「願望」という形で何かを選択しても、すぐにエゴに見えるわけではなく、どうしても三次元+時間上ではタイムラグが生じるので、その間に拒否してしまうのです。
ですが、自分の正体・本質である大きな意識に全幅の信頼を寄せていれば、タイムラグ(時間)なんて気にならなくなるし、ただ、すべてがあることへの安心感・充足感がエゴ上に生まれます。
その安心感・充足感こそがエゴが真に求めているものであって、そしてそれは大きな意識に最初から備わっているもので、そのおまけ的なものとしてエゴ視点で「願望が叶った」と見える物理現実があるのです。
ただエゴは、目には見えないただ感じるだけの安心感・充足感よりも、物的に「願望が叶った」と思える出来事を表面的な最終目的としています。
だからタイムラグがとてつもなく邪魔に感じ、その間に「ある」を見るのを断念してしまうのです。
エゴが真に求めているものとエゴが表面的に最終目的としているもの、その間に大きな齟齬が生じているということです。
このことから、エゴが、感覚的なものよりも、いかに物的な事象を重視しているかがうかがえます。
とはいえ、私たちのエゴは(時間のある)物質世界に生きているのですから、それは仕方がないといえるでしょう。
しかし、それでもあえて、エゴは自分のごく小さな一部分であることを自覚し、同時に自分の本体とは大きな意識であることをも自覚することが重要です。
エゴが大きな意識に全幅の信頼を寄せることで、エゴが真に求めているものと大きな意識に前提として備わっているものが一致し、そしてエゴにも「ある」が見え、経験するのです。