願望を願望と判断しているのも、それが叶っているか叶っていないかを判断するのも、すべてエゴです。
エゴ以外の大きな意識は、エゴが「願望」だと判断しているものをそもそも「願望」としていませんし、またそれが叶っている・叶っていないの判断ではなく、「それ」が「ある」だけです。
たとえば「結婚して幸せになりたい」という願望があるとします。
「結婚したい」「幸せになりたい」と思いそれを願望とみなしているのはエゴで、大きな意識には「結婚して幸せな自分」がただ存在しているというか、それがただ真実としてあるというか、とにかく完了しています。
なので、ただ「今、自分はすでに結婚していて幸せだ」とエゴで気づき、あとはすべてを意識に委ねればいいのです。
でも実際には「気づく」といっても誰もピンとこないので、「結婚して幸せな私」を想定する、「結婚して幸せ」という属性を自分に与える、「結婚して幸せ」を選択・意図する、などといった表現のほうがわかりやすいと思います。
ただ、いくらエゴが一度気づいても、現実を見て現象化していないと「叶っていない」と判断し、つまり「結婚していないし幸せじゃない」と判断して意識に委ねてしまうので、その通りになってしまいます。
この「現象化」へのこだわりが、「結婚して幸せな私」であり続けることを阻む最大の障害といっても過言ではないでしょう。
エゴは現象化を「叶っているかいないか」の判断材料にするので、現象化が起きてないうちはどうしても「叶っていない」とみなしてしまうし、早く起こってほしいと過剰に期待し、焦れば焦るほど「叶っていない」の選択を強化させます。
しかし大きな意識にとっては、現象化は「結婚して幸せな私」に沿って起きた、文字通りただの「現象」であって、それがすでに起こっていようがまだ起こっていまいが特に意味はありません。
だから、エゴの現象化の有無へのこだわりをなくすこと、つまり現象化を「叶っているかいないか」の判断材料にしないことが大切なのです。
では、どうしたらこだわりをなくせるのかというと、エゴの声を聞いて認めるのがいいと個人的に思います。
エゴが「現象化していないなあ」と思ったら、「ハイハイ、そうね」と同意して聞き流すだけでもいいですし、前回の記事に書いた意識の言葉を代弁する形で「そうだね。でも、叶っていないように見えるのはただの勘違いだよ」などといってあげてもいいでしょう。
それを繰り返していると、そのうちエゴも現象化で「叶っているかいないか」を判断することが面倒くさくなったり、馬鹿馬鹿しくなったり、無意味に感じられたりして、こだわりがなくなり、「現象化していないから叶っていない」ではなく、ただ「叶った」を選んだままでいられるようになります。
現実に関係なく「◯◯な私」を想定・意図・選択したら、引き続き現実(現象化)に関係なく「◯◯な私」であり続けていればいいのです。