前回の記事の引用です。
単にエゴが知覚していないだけですでに叶っているので、あとは自然の流れに任せるだけです。
現実は現実として受け入れ、やるべきことをやり、やりたいことをやり、やりたくなくてもやらなければならないことならやり、必要なければやりたくないことはやらない、何を感じても考えてもいい、そんな感じで生きていればいいのです。
この「現実は現実として受け入れる」についてもう少し書いてみたいと思います。
今までに何度も書いているように、現実とは意識の(エゴを介した)反映で、いわば、自分自身で創り出したものです。
エゴには不都合に見えるものも、自分自身で創り出しています。
叶っている自分が創り出したものなので、それをまるまる受け入れることが重要です。
「もう叶っているのに、そんなはずがない」などと受け入れないでいると、その「そんなはずがない」を見続けることになってしまいます。
たとえば、復縁を願っているとして、「復縁した私」を想定・意図・選択したとします。
その時点で叶っているのですが、そんな中、相手にLINEをブロックされたとします。
エゴは「もう叶っているのだからそんなはずはない」とか「やっぱり叶っていない」「叶えるのは無理だ」と思います。そうして「叶っていない私」に戻り、「叶っていない世界」を見続けます。
実際は、ブロックされたという現象があるだけなのですが、エゴがショックを受けるのも仕方ありません。エゴにとっては正反対に見える出来事なので当然です。
しかし、実際には「復縁した私の世界」で起きたことなので、ただ「そういうことが起きた」と受け入れればいいのです。そうすれば「叶っている私」のまま「叶っている世界」を見続けることができます。
この「受け入れる」というのは「出来事をただ起きたこととして捉える」という意味で、それに対して「何も感じない」「動揺しない」「平気でいる」という意味ではありません。
ですから、エゴの感じるままにショックを受けても悲しんでもいいのです。ただ、その出来事によって「叶っていない」と認定しない、という意味です。
ただ、「叶っている世界」で起きたことであっても、「叶っているから起きた」と無理やり結びつけないほうが無難です。
先述の例でいえば「復縁した私だからブロックされた」といったように捉えると、その荒唐無稽さにエゴが騒ぎます。
実際には「復縁した私」の世界に「ブロックされた」という出来事があるだけです。それも文字だけなら矛盾があるのですが、先述のように「〜だから〜だ」と因果関係で結びつけずに、独立した出来事として受け入れるほうが、エゴの抵抗感ははるかに少ないでしょう。
その「現実の受け入れ」が「叶っている」の認定でもあるのです。「受け入れない」ことは、「叶っていない」の認定ともいえます。