前回の記事に、「現象化」へのこだわりが、「◯◯な私」であり続けることを阻む最大の障害といった旨を書きました。
そしてこう続けました。
どうしたらこだわりをなくせるのかというと、エゴの声を聞いて認めるのがいいと個人的に思います。
エゴが「現象化していないなあ」と思ったら、「ハイハイ、そうね」と同意して聞き流すだけでもいいですし、前回の記事に書いた意識の言葉を代弁する形で「そうだね。でも、叶っていないように見えるのはただの勘違いだよ」などといってあげてもいいでしょう。
これはこれで効果があると思っているので書きましたが、あくまでもエゴへの対処です。
ここのところずっと考えていたのですが、現象化へのこだわりを根本からなくすには、これだけでは足りないとやはり思いました。
なぜ「やはり」なのかというと、前述のように、あくまでもエゴへの対処であることをわかっている上で書いたからです。
なぜそのような書き方をしているのかというと、エゴ視点で書かないと読者様には理解しづらいだろう、という推測の上です。
しかし、エゴによるエゴ上の対処は、一時的にエゴをおとなしくさせることしかできません。エゴは一瞬おとなしくなっても、時間が経つとやはり暴れ出します。
では、現象化へのこだわりを根本からなくすには、というか、そもそもの大前提として、
意識が自分であり、エゴが自分なのではない
と知ることが非常に重要です。
世の中のほとんどの人は、物事を知覚し、経験し、出来事に反応し、思考し、未来や起きてないことの想像をするエゴを「自分」だと思っていますが、実際に「自分」とは実体のない意識です。
ではこのエゴは何なのかといえば、あくまでも意識の投影としての物理現実世界を経験するためのコマのようなものです。文献によっては、映画・ドラマやRPGなどのキャラクターと喩えられることもよくあります。
「自分」である意識は完璧で、何でも持っているし、何でも叶えています。それが前提です。
その完璧な意識こそが「自分」だとそのまま受け入れれば、エゴが現象化を気にしなくなるどころか「我こそが自分だ」などと変な勘違いをする余地はなくなります。
そうすれば、「ある」「叶っている」完璧な世界が展開されていき、エゴもそれを体験することができます。