理想を「願望」とみなすのも、願望が叶っているか否かを判断するのも、願望が現象化したかしないかを判断するのも、現象化を経験するのも、すべてエゴです。
つまり、願望の現象化とは、すべてエゴ上で行われているものということになります。
なので、理想の自分であるためにそれはけして必要ではないのです。
私たちはすでにすべてを持ち、叶え、幸せで満ち足りた存在なのですが、エゴがそれを曇らせているというか、打ち消しています。
「現象化していないから願望は叶っていない」と。
本当は、いわゆるエゴの見る現象化がなくても満ち足りているのに、欠けている自分を創っているのはエゴなのです。
理想(真実・実像)と現実の間の巨大な壁となっているのはエゴなのです。
だからそのエゴの壁を取っ払ってしまえばいいのです。
そうすれば、理想と現実は一致します。
ただ、思考、感情、感覚を担当しているエゴを完全に消すことはできません。なので、現象に対していちいち「叶っていない」と判断しなければいい、というのは最近書いている通りです。
現象に対する反応はそのままでいいのです。たとえば、「結婚している私」が「一人で過ごしていて寂しい」とエゴが感じてもいいのです。
そこで「一人で過ごしていて寂しいから結婚している私が叶っていない」というエゴの判断が不要だということです。
同じ状況でエゴを取っ払うとどうなるかというと、「結婚している私」が「一人で過ごしている」だけになります。
繰り返しますが、その状況に対して「寂しい」とエゴが感じる分には全然いいです。ただ、「だから叶っていない」と判断しなければいいのです。
そこでどうしても出てくるのが「叶っていないと判断しないのは難しい」という声です。
難しいと感じるのは、エゴが叶っていないように見える現実にガッツリとフォーカスしているからです。叶っていないと判断しなくなる理由・証拠・根拠を求めているからです。
そんなものはなくても叶っていない判断をサクッとやめればいいのですが、難しいと感じる。エゴとはそういうものです。
なので、「叶っていない」からフォーカスを外すよう、他に夢中になれることや集中できることにフォーカスするといい、という提案をしています。
(これはあくまでもオプション的なものです。すんなり「叶っていない」と判断するのをやめられればやらなくていいです)
いずれにしても、エゴの壁によって理想と現実が分断されたままでいるか、壁から解放されて理想と現実が一致した世界にいくか、これはもう自分次第です。